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2012/07/12

源頼朝配流の地・・・蛭ヶ小島

1160年(永暦元年)3月11日、前年末の平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝は、伊豆国に流されます。

蛭ヶ小島の碑
流された地は、蛭ヶ小島だったといわれています。

蛭ヶ小島の源頼朝と北條政子の像
2人は1177年頃に結婚したのではないかといわれています。

蛭ヶ小島は田園地帯の中にあります。

守山から見た蛭ヶ小島周辺の景色


伊豆国に流されてから20年後の1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は源氏再興の挙兵をし、鎌倉に武家の都を創り上げます。


蛭ヶ小島
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/hirugakojima.htm

2012/02/26

北条時房の邸跡



三代執権北条泰時の時代に連署を務めた北条時房の邸跡。

鶴岡八幡宮の社官だった摂津守小池民部太夫藤原久時邸もここにあったそうです。

2011/08/25

鎌倉幕府の歴代将軍

鎌倉幕府源頼朝が創始し、源氏三代が将軍を務めた後、摂家将軍、親王将軍が続き、九代守邦親王のときに鎌倉幕府が滅亡しました。


初代:源頼朝

1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たし、鎌倉に入ります。
1185年(文治元年)、平家を壇ノ浦に滅ぼし、
1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼして全国を制覇します。
そして、1192年(建久3年)に征夷大将軍に任ぜられました。
1199年(正治元年)正月13日、亡くなっています(参考:旧相模川橋脚)。


二代:源頼家

父頼朝の亡き後、その家督を継ぎますが、将軍としての実権を奪われ、
1203年(建仁3年)、伊豆修禅寺に幽閉された後、翌年、暗殺されました(参考:比企氏の乱)。


三代:源実朝

兄頼家の跡を継いで将軍に就任しますが、実権は北条氏に握られていました。
1219年(承久元年)、甥の公暁に暗殺されています(参考:源実朝の暗殺)。

(参考:源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡(okadoのブログ)



~摂家将軍~


四代:藤原(九条)頼経・・・摂家将軍

実朝の後任には、北条氏によって摂関家より将軍が迎えられます。
次第に自らが実権を握るべく名越氏と糾合しますが、1244年(寛元2年)、北条経時によって将軍職を廃され、1246年(寛元4年)には、北条時頼によって鎌倉を追放されました(宮騒動)。
1256年(康元元年)8月11日死去。


五代:藤原頼嗣・・・摂家将軍

頼経の子です。
1251年(建長3年)、北条時頼によって鎌倉を追放されます。
1256年(康元元年)9月25日死去。


~親王将軍~


六代:宗尊親王・・・親王将軍

1251年(建長3年)、頼経を廃した北条時頼は、後嵯峨上皇の皇子を将軍に迎えます。
1266年(文永3年)、正室近衛宰子と僧良基の密通事件を受けて将軍を廃され、鎌倉を追放されています。
1274年(文永11年)8月1日死去。


七代:惟康親王・・・親王将軍

宗尊親王の子です。
1289年(正応2年)、将軍を廃され鎌倉を追放されました。
1326年(嘉暦元年)11月30日死去。


八代:久明親王・・・親王将軍

後深草上皇の皇子です。
1308年(延慶元年)、将軍を廃され鎌倉を追放されました。
1328年(嘉暦3年)10月14日死去。


九代:守邦親王・・・親王将軍

久明親王の子です(五代惟康親王の孫にも当たります。)。
1333年(元弘3年)、新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされ、最後の将軍となりました。
この年、鎌倉で亡くなったと伝えられています。

2011/08/20

鎌倉幕府~大倉・宇津宮辻子・若宮大路~

源頼朝が鎌倉に創った武家政権を「鎌倉幕府」といいます。

(※ただ、鎌倉幕府がいつ成立したのかは諸説あります(参考:源頼朝の鎌倉幕府はいつ成立したのか・・・?)。)


鎌倉幕府は、あった場所によって、それぞれ「大倉幕府」・「宇津宮辻子幕府」・「若宮大路幕府」と呼ばれています。

大倉幕府跡
1180年(治承4年)10月6日、源頼朝は鎌倉に入ります。
そして、大倉の地に御所を構えました。
のちに、頼朝の御所は「大倉幕府」と呼ばれるようになります。
将軍御所が宇津宮辻子に移されるまでの約45年間、
政治の中心でした。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page041ookura-bakufu.htm

宇津宮辻子幕府跡
1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると、
三代執権北条泰時は、幕府を宇津宮辻子に移します。
「辻子」というのは、大路や小路を結ぶ道のこと。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043utunomiya.htm

若宮大路幕府跡
1236年(嘉禎2年)、
幕府は、宇津宮辻子から若宮大路に移されます。
一説には、宇津宮辻子幕府を拡張したのが、
若宮大路幕府ともいわれています。
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が滅亡するときまで、
ここが政治の中心となりました。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043wakamiyaooji.htm


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2011/08/15

弓の名手:愛甲季隆

源頼家の弓の師範を務めた愛甲季隆。


『吾妻鏡』によれば・・・

1193年(建久4年)5月16日、父頼朝とともに富士の巻狩りに参加した頼家は、季隆の助けを借りて、見事鹿を射止めたそうです。

1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠の乱では、季隆の放った矢が重忠に命中します。季隆は、直ちに重忠の首を北条義時に届けたといいます。


宝積寺
厚木市にある愛甲季隆ゆかりの寺。
裏山には季隆の館跡もあります。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/hoshakuji.htm

季隆は、1213年(建保元年)、和田義盛に味方した和田合戦で滅亡しました。


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弓馬四天王:武田信光

武田信光は、甲斐武田家の第五代当主。

1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮では、放生会が催されました。その折、流鏑馬が奉納されています(参考:鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬)。

信光は、この流鏑馬で射手に選ばれています。
当時、信光は、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されていました。


信光寺
伊豆韮山にある武田信光ゆかりの寺。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/nirayama-sinkoji.htm


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弓馬四天王:小笠原長清と鶴岡八幡宮の流鏑馬

小笠原長清は、1187年(文治3年)、源頼朝の弓馬術礼法の師範となり、「弓馬四天王」と称されました。

この年の8月15日、鶴岡八幡宮では放生会が行われ、流鏑馬が奉納されています。
これが、鶴岡八幡宮例大祭のはじまりといわれています。

(弓馬四天王:小笠原長清・海野幸氏・望月重隆・武田信光)







鶴岡八幡宮例大祭で催される流鏑馬神事は、長清が創始したという「小笠原流弓馬術」による流鏑馬が奉納されています。


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那須与一と松葉ヶ谷~鎌倉:妙法寺~

日蓮が草庵を結んだ場所として知られる松葉ヶ谷には、屋島の合戦で、平家が船上に掲げた扇を見事射落とした那須与一の屋敷があったといわれています。

「松葉ヶ谷」という地名は、与一の「的場」があったので、「的場ヶ谷」と呼ばれていたものが転訛したとも伝えられています。


妙法寺
「苔の寺」として知られる妙法寺付近に、
那須与一邸があったと伝えられています。

与一は、治承・寿永の乱の功績によって源頼朝より丹波・信濃など5ヵ国を賜りました。
生没年等の詳しいことは不明です。


かつて、4月に開催される「鎌倉まつり」では、由比ヶ浜で「那須与一祭」も行われていたといいます。



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