しかし、源氏は、頼朝の挙兵からわずか40年余りで終わってしまいます。
~源頼朝の墓~
1199年(正治元年)正月13日、源頼朝は亡くなりました。
前年末に行われた相模川の橋供養の帰路、落馬したことが原因だと伝えられています。
相模川の橋供養~源頼朝の落馬と死~
頼朝の墓は、山の中腹にあります。
頼朝の館でもあり、政治を執った大倉幕府を見下すかたちで建てられています。
もとはここに頼朝が建てた法華堂がありました。
現在の墓は、江戸時代に薩摩藩の島津重豪が建てたものです。
源頼家は、1182年(寿永元年)8月12日、頼朝の長男として誕生します。
鶴岡八幡宮の参道若宮大路や段葛は、頼朝が妻政子の安産を願って造らせたものと伝えられています。
頼家は、父頼朝の急死によって家督を継ぎますが、北条氏によって将軍職を奪われ、1204年(元久元年)7月18日、配流先の伊豆修禅寺で暗殺されました(参考:比企氏の乱)。
(※頼家の墓は、鎌倉にはありません。)
源実朝は、1192年(建久3年)8月9日に誕生します。
この年は、父頼朝が征夷大将軍となった年です。
兄頼家が北条氏によって将軍職を奪われると、代わりに将軍の地位に就きました。
しかし、実権は北条氏にあって、蹴鞠や和歌に熱中していたといいます。
1219年(承久元年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した実朝は、式後、甥の公暁(頼家の子)によって暗殺されました(参考:源実朝の暗殺)。
実朝は、源氏の菩提寺勝長寿院に葬られました。
しかし、遺骸には首がなかったといいます。
秦野市にある首塚は、実朝の首を葬った場所と伝えられています。
首塚の五輪塔は、もとは木製だったそうです。現在は鎌倉国宝館で観ることができます。
頼朝の墓は、山の中腹にあります。
頼朝の館でもあり、政治を執った大倉幕府を見下すかたちで建てられています。
もとはここに頼朝が建てた法華堂がありました。
現在の墓は、江戸時代に薩摩藩の島津重豪が建てたものです。
~源頼家の墓~
源頼家は、1182年(寿永元年)8月12日、頼朝の長男として誕生します。
鶴岡八幡宮の参道若宮大路や段葛は、頼朝が妻政子の安産を願って造らせたものと伝えられています。
頼家は、父頼朝の急死によって家督を継ぎますが、北条氏によって将軍職を奪われ、1204年(元久元年)7月18日、配流先の伊豆修禅寺で暗殺されました(参考:比企氏の乱)。
(※頼家の墓は、鎌倉にはありません。)
~源実朝の墓~
壽福寺の五輪塔 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137jyufukuji.htm |
源実朝は、1192年(建久3年)8月9日に誕生します。
この年は、父頼朝が征夷大将軍となった年です。
兄頼家が北条氏によって将軍職を奪われると、代わりに将軍の地位に就きました。
しかし、実権は北条氏にあって、蹴鞠や和歌に熱中していたといいます。
1219年(承久元年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した実朝は、式後、甥の公暁(頼家の子)によって暗殺されました(参考:源実朝の暗殺)。
秦野市の首塚 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sanetomo-kubituka.htm |
実朝は、源氏の菩提寺勝長寿院に葬られました。
しかし、遺骸には首がなかったといいます。
秦野市にある首塚は、実朝の首を葬った場所と伝えられています。
首塚の五輪塔は、もとは木製だったそうです。現在は鎌倉国宝館で観ることができます。
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