2011/08/08

三浦義明の菩提寺~来迎寺(材木座)~

1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、三浦義明は一族を挙げて応援に駆けつけます。
しかし、石橋山の合戦には間に合うことができませんでした。

仕方なく、衣笠城に戻りますが、途中の由比ヶ浜畠山重忠軍に遭遇し合戦となります(参考:小坪合戦と衣笠合戦)。

三浦義明と孫の多々良重春の墓(来迎寺)

この合戦で義明は、衣笠城で討死します。
子の義澄義盛(和田)は逃れて安房に渡り、同じく安房に渡った頼朝と合流しました。

来迎寺
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page135raikoji.htm

材木座の来迎寺は、
頼朝義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺をその前身としています。

三浦一族の墓
来迎寺の本堂裏には、
五輪塔がいくつも並べられた三浦一族の墓があります。
もうすぐ墓の横に植えられたサルスベリが見頃を迎えます。

境内にはノウゼンカズラも咲いていました。

来迎寺の本尊は阿弥陀三尊像。
運慶の作とも伝えられています。

そして、聖観音像は「子育て観音」ともいわれ、
知恵のあるよい子を育てるとして親しまれています。
鎌倉観音巡礼の札所です、)


三浦氏は、義明の功績もあって、頼朝から厚遇されます。

一族の和田義盛は侍所の別当に任命され、
義澄頼朝の征夷大将軍の辞令を受け取る役を果たしています。

頼朝亡き後も幕府の有力御家人として活躍していましたが・・・

1247年(宝治元年)、泰村の代で北条時頼に滅ぼされてしまいます。
泰村らは、頼朝法華堂で自刃したと伝えられています(宝治合戦)。

(※和田義盛は、1213年(建保元年)、北条義時によって滅ぼされています(和田合戦)。)

法華堂跡にある三浦一族の墓

~鎌倉から少し足をのばせば・・・~

衣笠城址
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/kinugasa-jyosi.htm
満昌寺の三浦義明墓(横須賀)
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/manshoji.htm

薬王寺跡の三浦義澄墓(横須賀)
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/yakuoji.htm

和田の里(三浦)
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/wada-jyosi.htm


人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。